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2009年 08月 29日
ひと昔前、
「本当は○○な××」 という傾向の本が流行った時期があった。 『本当は怖い童話』とか、『本当は残酷な民話』とかいった本がどさどさと大量に書店に並んだ。 あげくには『本当は萌える名作文学』とかいうのも出てた気がするが、ここで興味深いのは「本当」という言葉の使われ方だ。いつの間にか「本当」の意味するところが、主観の極みへと反転してしまっているこの面白さ。 要するに 「『本当は萌える』ってあのなあお前、『本当は』じゃねえよ、まったく」 ということだが、なんでこんな話をしているかというと、今日とりあげるひとことについての僕の想いがこの「本当は萌える」と同レベルなんじゃないかと不安だからである。 しかし不安がありつつも、取りあえず言わなければどうしようもない。なので本題に入る。 というわけで、今日とりあげるのは、 ウィリアム・シェイクスピアの喜劇「あらし」 からのひとことです。 (以下の引用は福田恆存訳の新潮文庫『夏の夜の夢・あらし』(1971=2003改版)によった。なお、引用文中の ( ) は全て原文。引用者註は 【 】 で示す) あらすじで、あらしによって旧敵たちが海に放り出された場面の後、舞台はプロスペローの居る島に移る。そこでプロスペローは、妖精の「エーリアル」をその場に召喚する。 召喚され、エーリアルは上空に現れる。そして言う初めての台詞がこれだ。 エーリアル 御機嫌よう、お師匠様、御用は何なりとお心のままに、空は因より、火の中、水の中、どこであろうと自由自在……群がる巻雲に乗って走りも致しましょう……(大地に降り、頭を下げ)鶴の一声、お指図のあり次第、この妖精のエーリアル、力の限りお役に立たせて頂きます。どうです? 思わず 「うさんくせえええええええええ」 と叫びたくなってしまう。このまったく信用できない慇懃な態度! そして、「うさんくささ」が同時に魅力なのだ。このしょっぱなの台詞を読んで、僕は即座にエーリアルを気に入ってしまった。 でも、ここで不安なのが上に書いたことなのである。こういう喋り方を「うさんくさい」と思ってしまうのは、僕が間違っているのだろうか? この美しい言葉を(美しいことは間違いない)そのまま美しいものとして受け止めなければならないのだろうか? しかしこのすぐ後で、プロスペローとエーリアルはこんなやり取りをするのだ。 プロスペロー 【略】今から六時までだ、私もお前もこの数時間を少しの無駄もなく使わねばならぬ。もう爆笑です。不平を言ったり、慌てて謝ったり、急にまた愛想良くなったり、ころころ変わる態度が目に浮かぶ。大好きだ、エーリアル! ここを読むと、「やっぱり『うさんくせえ』という感想でいいのかなあ」とも思う。 いやここだけじゃなくて、この物語全体を読むと、「美しい言葉」というものに対する一種複雑な感情が湧きあがってくるのである。 それについて詳しく説明する。 「あらし」のストーリーは、プロスペローが魔法を使ってナポリ王たちを懲らしめるというのが当然ながら大筋である(といっても傷つけるわけではなく、幻術によって恐ろしい目にあわせる程度だが)。 しかし、復讐するプロスペローの側と復讐されるナポリ王たちの側と、その対立関係とはまた別のところに、重要なキャラクターがもうひとり居る。 怪物の「キャリバン」だ。 舞台となるこの島はもともとある魔女のもので、エーリアルは魔女に閉じ込められていたところをプロスペローに助けられた。そしてキャリバンは、その魔女の子供である。 出会った初めの頃、プロスペローはキャリバンに言葉や知識を教えたりして、プロスペローを好きになったキャリバンも彼に母親の使っていた魔法の術を全て伝えたらしい。 が、ある時キャリバンはプロスペローの娘を襲おうとした(らしい。本編でもあらすじとしてしか語られない)。そのために「所詮怪物だ」ということになって、今はプロスペローの奴隷である。プロスペローの魔法による責め苦に、キャリバンはいつもびくびくして過ごしている。 プロスペロー 【略】そういうお前に心に思う事を言い表す言葉を教えて上げたのは私……でも、捻け者のお前には、折角、物を憶えても、心の優しい人たちと一緒に暮らす事が出来ない処があるらしい、だからこそ、この岩の中に閉じ籠めて置かなければならなかったのだよ、本当は牢屋でも軽過ぎる位なのだもの。今や、2人はこんな刺々しい会話しかしなくなってしまった。 この後、島に流れ着いた酔っぱらいと道化にキャリバンは出会う。彼らもナポリ王と同じ船に乗っていたのだった。そして、キャリバンはよりによってその酔っぱらいを新しい主と決め、一緒にプロスペローを殺して島を奪い返そうと画策するに至る。 かくもプロスペローと憎しみ合っているキャリバンだが、しかし、そんな彼が話す言葉は、本人が言っているように「人に悪態をつく」だけではないのだ。 例えば、プロスペローとの思い出を語る台詞。 始めのうちは俺を撫で廻して、結構大事にしてくれた……木の実の入った飲物をくれもしたっけ……色んな事を教えてくれたな、昼間強く光るのは何とかで、夜の弱い光り物は何とかってな、あるいは、エーリアルの奏でる音楽を聴きながらの台詞。 怖がる事は無いよ「昼間強く光るのは何とかで、夜の弱い光り物は何とかってな」 「もう一度夢が見たくて泣いた事もあったっけ」 なんという悲しくも美しい台詞だろう。怪物らしく言葉遣いは拙いが、そこがまた良い。しかも後者の場面でエーリアルは、キャリバンらを魔法で操るためにいわば催眠音楽を演奏しているのである。それをまるで知らずに「怖がる事は無いよ 訳者の福田恆存による 醜悪の化物キャリバンにこういう美しいせりふを言わせる、天才シェイクスピア以外の誰がそれを為し得たであろうか。という詠嘆のこもった言葉は、まさに卓見である。 で、キャリバンたちのプロスペロー暗殺計画は、たちまち察知されてしまう(エーリアルがプロスペローに知らせるのだ。流石あ!)。 謀反はあっけなく失敗し、キャリバンは「俺は本当に碌でなしの頓馬だ、こんな飲んだくれを神様と思い込んだりしたのは!【p.267】」と叫ぶ。結局彼は最後の最後まで、どうしようもなく情けない立ち位置しか与えられない。 しかしここで、キャリバンが単なる「醜悪の化物」というだけの役回りではないということに気付く。 使役されている妖精エーリアルと、奴隷にされているキャリバンと、全てを魔法で支配しているプロスペローとは、実は似た者同士だ。 プロスペローは、今回の復讐を実にテンポよく進めていく。事前から綿密に計画を練っていたであろうことが推察される。彼はこの孤島で、魔法を研究しつつひたすら恨みを晴らす手段を考えていたのだろう。 ラスト近く、ナポリ王たちは幻に恐れおののき茫然自失となってしまう。その様子をエーリアルから聞かされ、彼はもう復讐し続ける気を無くす。 あれたちが前非を悔いているとあれば猶の事、これ以上それを責める心は更に無い、さあ、皆を助けてやれ、エーリアル。私は理屈の上ではもちろん彼は自分の意志で魔法を放棄するのだが、なんだか逆に、「ようやくこれで『怒りの魔法』の呪縛から解放される」と言っているかのようだ。 孤島に娘と2人。多くの妖精たちとキャリバンを召使にし、復讐を胸に秘めながら、彼はやっぱり「閉じ込められている」のだ。「魔法を用いなければ。妖精を操らなくては。奴らに復讐をしなければ」という恨みの念に。凝り固まった思考によってがんじがらめにされたその様は、彼にこきつかわれるエーリアルと、また岩穴に封じられたキャリバンと、なんの違いがあろうか。 「プロスペロー」と「魔法の力」。もはやどっちがどっちを支配しているのか分からない。彼らの関係は、果てしない入れ子構造のようになっている。 エーリアルが自由の身となるラストシーンは、まるで逆にプロスペロー自身の解呪が達成されたかのような、爽快な雰囲気に満ちている。いや、実際、彼自身も同時に解放されるのである。それは、エピローグで彼が観客に向かい語りかける有名な台詞 何とぞ皆様のにつながっていく。 「皆様の呪い」である。つまり、観客がプロスペローに呪いをかけていた。 観客がかけていたプロスペローへの呪いとは、「彼が魔法によって全てを支配している」という物語の設定そのものだ。「自分は全てを支配しなければならない」ということこそが、彼を支配する呪いであったのだ。 (平たく言えば、「普通の人間に戻りたい」ということである。このことを福田は「解題」の中で、「彼はその全能の自由を抛棄する自由を持たない【p.281】」と表現している) 妖精エーリアルの語る美辞麗句がうさんくさく聞こえ、怪物キャリバンの語る朴訥な言葉が切なく美しく聞こえるのも、あるいはこの構造に対応してはいないか。語るキャラクターと語られる言葉の「美しさ」のズレが、この物語全体を表わしてはいないか。支配し支配される関係が見た目の通りではないということを、表現しているのではないか。 ・魔法で妖精を支配しているつもりで、 実は自分が支配されている。→「うさんくさい」 ・醜い怪物の奴隷のようで、実は自分と似た者同士だ。→「切ない」 というふうに。 だからこの戯曲は、ただ単に「美しい言葉」を羅列しているだけではない。もうひと回り外側に出て、その視点から美しい言葉を眺め、美しい言葉について考えている。
by yama-shina
| 2009-08-29 08:46
| 今日の言葉
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