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2009年 11月 15日
ええい、学振も冬コミも落ちた。 というわけで今日取り上げるのは、 保坂和志の随筆(?)「遠い触感 第七回 ペチャの魂」 (『真夜中 No.7』所収,pp.116-123,リトルモア,2009) からのひとことです。 でも、なんか今日の文章は、言ってることがよく分からんというか、やや錯乱気味というか、自己批判精神が欠如しているというかそういうものになってしまったのですが、まあ書いてしまったのものはしかたがないので載せます。 ペチャが死んだ。 ペチャというのは保坂和志が飼っていた猫だ。22年前に、当時まだ結婚する前の保坂和志の妻が、マンションの植え込みの中に居たのを拾ってきた。一目見たときから保坂和志自身も猫にめろめろになり、それからずっと飼っていた。 この随筆ではまず前半の部分で、ペチャの体調が悪くなってきた5年ほど前からの様子が克明につづられる。下痢のために消耗がひどくなって、自分で食べることができないため、口を開けさせて指で餌を上顎にすりつける「強制給餌」を行うこととなり、それを4年ほどずっと続けてきたのだが、今年の2月になって急にそれをペチャが厭がってはねのけるようになって、獣医に連れていっても原因が分からず様子見となり、そうしたらそれから数日たって今度は右目の涙線のあたりがものもらいみたいに腫れてきて、獣医に診てもらったがまたもや「様子見」となり……という文章がひたすら続く。 僕自身実家で猫を飼っていることもあり、これらの文章をひりひりとした辛い思いとともに読んだ。特に、看病しながらも、薬がだんだん聞かなくなって「その晩はつい調子に乗ってボタボタ何滴もたらしてしまったために」かえって具合が悪くなってしまい……というところなど、読みながら、胸の奥が比喩ではなく本当に重くなる。 そして、死ぬ15日前の8月11日、ペチャは突然ひっくりかえって手足をばたばたさせた。そばに行くと瞳孔が開いている。保坂和志の妻が「ペチャ! ペチャ!」と必死に呼びかけて、なんとか意識は戻ったのだが、その晩十時頃、ジジが絶叫するように大声で鳴いて階段を駆け上がった。 ジジというのは、これも保坂和志が飼っている猫だ。ペチャよりも2年あとに、これも小さな仔猫のころから飼い始めて、ペチャとずっとべったり仲良く暮らしてきた。 前置きが長くなったが、ここまでの経緯を、すなわちここまでの文章で書かれてきた具体的な内容を把握していないと今回のキモの部分は理解できない。 保坂和志はこう書く。 ペチャが一度死にかけた十一日の夜にジジが大声で鳴いたというより絶叫して階段を駆けあがったとき、私と妻は「ペチャの魂を追いかけていった」と感じたのだが、私と妻はまだペチャに死んでほしくないと思っていたから、ジジのあの行動をまるごとは肯定せず、それを他の人にも理解可能な程度の意味で「ペチャの魂を追いかけていった」と理解することにした。ということは、ジジの行動をまるごと受け止めることを拒んだ。ここで保坂和志が言っているのは、「ペチャの魂を追いかけていった」と言葉で表現することでかえって「ペチャの魂」を感じられなくなってしまうということだ。そうではなくて、ペチャとジジの行動をそのまま言語化せずに認識することが、それこそがペチャの「魂」を感じることになる。「魂」を感じるとはつまり、ペチャが存在している、ということそれ自体を「そのもの」として受け止めることだ。 私と妻がそのときその場ではほとんどまるごとわかったことを、その場に居合わせず、ペチャとジジのべったり密着した関係も見ていない人に向かって伝えようとすることは、自分がわかったことを否定することになる。言葉というのは本質において出来事の否定なのだ。私はいままでもそういう風に考えてきたのかもしれないし言葉で書いたこともあるのかもしれないが、いまはっきりそう思う。言葉を使って、出来事の現場に居合わせなかった人に向かって、その人に納得させたり実感させたりしようと思って伝えるということは、現場に居合わせなかったその人のサイズに変形することにしかならない。それによってその人の理解や世界観がかりに劇的に変化したとしてもそれは語り手の熱意や語りそのものの力であって、その人が変化した原因は語りの方であって出来事そのものではない。ここの「言葉というのは本質において出来事の否定なのだ」の一文を目にした瞬間から僕はぐっと喉が詰まって、「……その人に納得させたり実感させたりしようと思って伝えるということは、現場に居合わせなかったその人のサイズに変形することにしかならない……」というところを読みながらもう涙が出始めていた。手にしていた『真夜中』のその大きな冊子を下ろし、首を曲げて机に顔を突っ伏した。 それは何の涙だったのかといえば、やはり悲しみの涙だったのだろう。この、完全に正しい真実を宣言せざるをえない保坂和志のことも悲しかったし、これまで僕が文章を書いていたときは、このことに対する意識がまだまだ低かった、というか、ほとんど意識していなかった、ということも悲しかった。 死ぬ半年ほど前から、ペチャの体調がどんどん悪くなっていくのを見ながら、あのとき自分は魂の存在を身近に感じていた、と保坂和志は言う。そのとき出てきた「ペチャの魂」という意識は、自然なところから無邪気に出てきた考えであった。 何か考えが、そういうふうに自然に発生したその後で、その考えを「世間」や「理屈」と結び付けようとすること、要するに「世間に向かって取り繕う」ことを、我々は日常的に行ってしまっている。 それはつまり、例えば主人公が 「空の雲を見上げていたら、ふと、あの雲の峰まで自分が飛んでいけるんじゃないか……と、そう思ったんだけれど、それは、その時僕が抱いていた不安な気持ち、僕がこの世の中に対して感じている儚さ、切なさといったものとかのせいだったんだろうと思う……(以下、その「不安な気持ち」についての解説が続く)」 とかいってしまうようなものだ(今適当につくった文章だけど)。 「あの雲の峰まで自分が飛んでいけるんじゃないか」と感じたことはただ単にそう感じただけであって、特に何も象徴してはいないし何も意味してはいない(まあ、主人公の性格については何かを表しているといえるかもしれないが、そもそも「性格」なんてものが本当にあるのかどうかも疑ってかかるべきだ)。後半部分のような「まとめ」を書いてしまったら、本当にそこで感じていた「雲の峰まで自分が飛んでいく」という感覚の生々しいリアルさは失われてしまう。 こういう矮小化の操作は、日常的に用いられる言葉遣いの中に、前提として潜んでいる。そう保坂和志は指摘する。だから我々は文章を書くとき、少なくともそのことに自覚的であらねばならないし、誰にでも了解可能な表現形式に逃げ込むことを避けなければならない。 だが。 上で引用した文章の中で「言葉というのは本質において出来事の否定なのだ」といっているとき、そこでいう「言葉」というのはそういった日常的で、手垢にまみれていて、保守的な表現形式(例文のような)だけを指しているのだろうか? そうではないのではないか? たとえそれがどんなに優れた表現だったとしても、どんなに素晴らしい文学作品の言葉でも、どんな文章であれやっぱり文章一般は「出来事の否定」にしかならない……そう、ここではいっているように思う。 しかし、たとえそうだとしても保坂和志は、「だから文章を書くことに意味は無い」といっているのでもなければ、「だからもう小説を書くのなんてやめた」といっているのでもない。事実、この文章の後もコラムは続く。 作品が体験と呼べるほどの濃度を持っていたり、人に霊感を与えたりすることを本当だとするなら、そこで人は言葉による記述の不可能性や思考という構築的なプロセスの破綻を経験するわけであり、魂はそのような状態にいるときにしか存在を知ることができない。つまり優れた言葉とは、「言葉による記述の不可能性」を知らしめるという意味において優れた言葉なのだ……と、いう僕のこの逆説的な理解が正しいのかどうか、僕自身も今はまだ分かっていない。 ひょっとしたら僕は実に当たり前のことをここまで書いてきて、当たり前のことについて悩んでいるのかもしれない。しかし例えば 「言葉が出来事を否定するなんてことは、構造主義的に見ればそんなの当たり前のことだ」 などと誰かがここでいってきたりしたとしても、そういったしたり顔で語られる言説は、上で引用した文章を読みながらあの時僕が流した涙にはけして到達できない。 僕はもうこの「ペチャの魂」という文章を何度も読み返しているのだが、引用した部分で涙が流れたのは最初に読んだ一回きりだ。そのことが逆に、あの時の僕の行動は確かにその場限りの、二度と繰り返されない「出来事」だった、ということを保証しているように思えて少しほっとする。 小説や書き遺した断片を、書いてあるとおりに意味やテーマなどを考えずに、ただ書いてあるとおりにたどっていくと、一人の人間が紙に書き記していった時間ないし行為そのものが浮かび上がってくる。と、この随筆全体の終わり近くにあるように、優れた文章は、たとえ「その文章が意味するもの」としての出来事を否定しても、そこで「作者自体」、「文章自体」という新たな出来事と、「読者」という新たな出来事を生むのかもしれない。この理解もまた、やや単純すぎるのだが。 というふうにまあ、ぐじぐじと以上のようなことを考えてきたのだけれど、しかしここで注意しなければならないことがある。 以上のような書き方では、 「言葉というのは本質において出来事の否定なのだ」 というひとことにまとめられてしまうようなある「テーゼ」を得る 僕自身がひとつの「テーゼ」や「教訓」を得て、何か分かったような気分になるという、そんなことの だから僕は、ペチャと、ペチャについて書いた保坂和志とを、そのまま「出来事」として、「ただそうあるもの」として受け止める必要がある。机に突っ伏して泣いていた顔を上げると、目の前には僕のノートパソコンがあって、スクリーンセーバーが起動した真っ黒い画面に背後にある窓がうつって見えていた。窓には午後の日差しが木々を透かしてきらきら光っていて、黒い画面にうつっているせいでその日差しはなおさら眩しく明るく見えた。ノートパソコンの、たぶんハードディスクだかが回転している音がカリカリと低く響いて、すぐ横のスチール製のついたてには大学の研究に使っている資料や書類が磁石で止められている。開け放してある研究室のドアから、廊下を歩く人の足音がぱたんぱたんと高く響いてくる。それから、口笛を吹くのが聞こえた。僕の知らない曲を口笛で吹きながら、開いたドアの前をその見知らぬ人は通り過ぎた。
by yama-shina
| 2009-11-15 00:53
| 今日の言葉
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