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2009年 07月 24日
『藤子・F・不二雄大全集』(小学館,2009)買ってまいりました。
しかし財布の都合もあって、取りあえず今日は『ドラえもん①』だけ。「雑誌連載」という時間の流れも感じつつ、じっくり読んでいきたい(と言いつつ、あまりの面白さに既にどんどん読み進めてしまっていますが)。 さて、当然僕は『ドラえもん』が大好きなのだけれど、ファンとしてはぬるい。子供のころから、ただ読んで面白がっていただけで、例えば各々の初出などまるで気にしていなかった。 だからこの度、『大全集』の公式サイトを見ていて、驚いた。 あの名作! 「白ゆりのような女の子」! が! まさかあんな連載最初期に描かれていたなんて!(『小学四年生』70年6月号。『小四』基準で数えたらたった連載6回目) 『ドラえもん』という作品に対するF先生の尋常でない意気込みが感じられる。「ごった煮漫画」の自称は伊達ではない。 というわけで今日取り上げるのは、『ドラえもん』より、 「羽アリのゆくえ」(てんとう虫コミックス第25巻所収)からのひとことです。 (買ってきた『大全集』からじゃないのか! ひどい) あらすじどうです! もちろん全体として素晴らしい話なのだけれど、ここでのび太に「むし暑い夕方だね」という台詞を言わせているのがなによりすごい。 このひとことによって、空気のリアリティがぐっと増す。本当に「初夏(晩春?)にしては蒸し暑い夕方」というものがそこに(のび太とドラが居る“そこ”に)存在しているという気分になる。 それによって、「去年のいまごろも」とのび太が言うときの、「1年」という時間の流れ(長さ)にもリアリティが出る。そして、もちろん羽アリの存在にも。 そもそもこの「羽アリのゆくえ」という作品自体が、アリの生態を観察するという主題からもわかるように、リアルな世界へと接近する物語だ。それは例えば、初めに「うつしっぱなしミラー」でアリの巣を確認した時の のび「この巣がどこにあるのかしりたいな。」というシーンにも表れている。それまでただの「庭木」で、種類なんて気にしてなかったものが、ここで急に「ヤツデ」になる(創り手側の設定としてはしっかり「ヤツデ」に決まっていたかもしれないけれど、それが作品内で触れられることは、普段は無い)。 「野比家の庭にはヤツデがある(そしてその下にアリの巣がある)」ということ。それは所謂「ドラマニア」の喜びとなるだけではない。読んでいる者すべてがこのコマを見た瞬間、リアルな世界(=野比家の庭)へ接近する。 また、「ファンタ・フィルター」という道具の使い方も良い。 「ファンタ・フィルター」はたぶん「ファンタジー・フィルター」の意味だろう。この作品以外にも「タンポポ空を行く」(てんコミ18巻所収)などに登場するが、その効果は 「これを通すと、動植物が童話やファンタジーの中のようにデフォルメされて見え、人の言葉をしゃべる」 というもの。ミラーでアリの巣を観察する時や、スモールライトで小さくなって実際に巣の中へ入るときなどに使われた。 これだけの説明だと、上記した「リアルな世界」と矛盾するかのようにみえるが、そうではない。 最初にアリをミラーで見たとき、そこには実際の(写実的な画風の)アリの姿がどアップでドンと映し出される。それを見てのび太は「キャッ。」と悲鳴を上げる。 「こわいよ~。」 と思わずミラーを放り出してしまったのび太に、ドラは 「いろいろうるさいやつだ。」 と冷静な顔で言い、その後 「ファンタ・フィルターをかけたからだいじょうぶ」 と微笑みかけるのである。 この、 「現実のアリをどアップで見て怖がる」→「ファンタ・フィルター(メガネ)をつける」 というシーンは、この後にもアリの巣へ入る際にもう一度、まったく同様に繰り返される。こういう段階をいちいち丁寧に踏んでいるところに注目すべきだ(最初からファンタ・フィルターが付いていたりしない)。これは、「子供向けの漫画であること」と「ウソを書かないこと」を両立させるための見事な手法といえよう。 さて、もう一度「むし暑い夕方だね」に戻る。 説明が無いために、今の季節・時間・天気などが全く分からない漫画やアニメや小説は山ほどある(『ドラえもん』も大半の話はそうだ)。それでも通用する。別に言わなくても。 なのにのび太は「むし暑い夕方だね」と言う。何故か? “本当”に、“その時”がむし暑い夕方だったからだ。 そう思わせる力がこのコマにはある。 ひょっとしたら、「羽アリはむし暑い夕方に飛び立つ」という習性があるのかもしれない。いや、何につけてもディティールにこだわるF先生のことだから、むしろそうである可能性はかなり高い。しかしたとえそうだとしても、このシーンを読んでいる最中は 「羽アリを2人に見せるために、(漫画としての)ご都合主義でその時を『むし暑い夕方』に設定した」 というよりも 「その日の夕方が、偶然むし暑かった。そしてそのために、羽アリが飛び立った」 という気分になるのだ。 それはやっぱりのび太の 「むし暑い夕方だね」 という台詞が、あまりにも突然に、問答無用な形で出てくるからであり、そしてその後はまるで触れられないからであると思う。つまり、「その時」がむし暑い夕方である理由を説明したりしないし、「むし暑い夕方には羽アリが云々」という説明(上に書いた予想が合ってればの話だけど)もない。 ただ唐突に、「むし暑い夕方だね」とだけ言われる。 フィクションにおけるリアリティとは、そういう形で成り立っているのではないかと思う。つまり何の脈絡もなく 「とにかく、むし暑い夕方だったんだよ! それだけだ! 理由なんてないよ!」 と言われる形で。何故か。 我々の居る現実が、そうだからだ。 空を飛んでいく羽アリの群れを見ながら、2人は話す。 ドラ「王子と王女がうまれたんだ。これから新しい国を作りに旅だつんだよ。」ここでのドラえもんの台詞には、一片の嘘も無い。そしてこの台詞は、冒頭で登場する「アリとキリギリスの話」と対比の関係にある。 あのときドラが口にした「すこしはアリを見習ってせっせと……。」という言葉は、既存の説話の「引用」であり、単なる「喩え話」であり、ただの「説教」である。そこにリアルは存在しない。 だが今度は違う。ちゃんと現実に則した言葉だ。だからこそのび太が(“あの”のび太が!)、「宿題でもやるかなあ」と言って机へ向かうことになるのである。 それは読者である子供たちにとっても、きっと同じだ。この「羽アリのゆくえ」という作品自体が、つまらない「喩え話」「説教話」になってしまわないためのリアリティ。それを、 「むし暑い夕方だね」 というひとことが、ほんとうにさりげなく支えているのである。 * * * てんコミ25巻には、この話のほかにも 「のび太のスペースシャトル」 「な、なんと!! のび太が百点とった!!」 「ブルートレインはぼくの家」 「竜宮城の八日間」 「のび太の結婚前夜」 などの、普段とはちょっと違った雰囲気の話が数多く収められている。ぜひご一読を。
by yama-shina
| 2009-07-24 14:44
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